2021-10-11 第205回国会 衆議院 本会議 第3号
幼少期から田村元の身近で育ち、大局的な国家観を持ちながらも、地元の皆様のお声を傾聴する姿勢等、様々なことを学びました。 私が国政を目指すこととなりましたのは、バブル経済崩壊後、地元青年会議所の活動に携わり、当時の国政に閉塞感を感じていた頃でした。
幼少期から田村元の身近で育ち、大局的な国家観を持ちながらも、地元の皆様のお声を傾聴する姿勢等、様々なことを学びました。 私が国政を目指すこととなりましたのは、バブル経済崩壊後、地元青年会議所の活動に携わり、当時の国政に閉塞感を感じていた頃でした。
一部の野党は、選挙に勝利するためには割り切って協力し合い、政権交代を目指すが、その先にある国家観や安全保障などは決定的に考え方が違うと言います。では、その方々は、一体、国民から選挙において何の審判を受けるつもりなんでしょうか。
その上で、ちょっとお聞きしたいんですが、人事行政の前提となる国家観についてお聞きします。 つまり、企業統治、企業経営と国家統治、国家経営は同じなのか、違うのかということです。 発言機会が一回ですので、ちょっと私の考えを先に申し上げて、お考えをお聞きしますが、企業経営は個別の生存戦略なんですね。だから、合理化とか効率化とかとなじみやすいんです。
大きな国家観というのも伝わってこない。むしろ、やってはいけないことを冒頭でやり始めてしまった。それは日本学術会議問題だと思います。 国民のために働く、国民が最優先でしてもらいたいのは学術会議問題ですか。
一つ一つの施策は示されるのですが、総理の国家観、我が国をどのような国にしたいのか、総理がどのような社会を実現したいのかが見えてまいりません。 私たち国民民主党は、人への投資を重視して、公正な再配分によって理不尽な格差をなくす社会を目指しています。総理は、自助、共助、公助、そして絆が国の基本であると語っておられます。
あのときの、たとえ何と言われようとも、帰国した後、羽田空港で石を投げられようとも、単独でアメリカとの講和をすることが今最大の国益であるということを判断した、麻生さんのおじい様が判断されたあの国家観というか、感覚からいうと、今、日本の税制を預かっておられる、最高責任者である麻生太郎財務大臣に、この税制をやってみたいなと。もうマーケットは閉まっていますので、大丈夫だと思いますので。
その意味で、税制、あるいは歳出でもいいんですけれども、国家観が大臣と大方一致しているならば、後のパーツの部分は、手段の部分は、私は、小委員会で連日連夜でも議論して、早く十年先の日本を展望した社会を示すことが政治の責任であって、朝から晩まで何か足の引っ張り合いみたいなことではないんじゃないかなと思っているんですけれども。 そのときに、今、イギリスのブレグジットも右か左かで対立していますよね。
こういうところで、数百キロ離れているんですけれども、そういうイメージで、日本もダブルエンジンを搭載して、しなやかで強靱で、そして地方にも配慮した、そういう国家観、国家づくりを目指すべきだと私は考えるものでございます。
私は、約半世紀、中曽根先生のおそばで、その国家観、歴史観に触れ、御指導いただくことを無上の喜びとしてまいりました。以来、私の政治経歴は、全て中曽根カレンダーの中で活動してまいったのであります。 中曽根カレンダーの中には、たくさんのメニューが豊富ですが、その一つは、恩師中曽根が提唱し設立したAPPF、アジア太平洋議員フォーラムであります。
フロム・ザ・クレイドル・ツー・ザ・グレーブ、揺りかごから墓場までといえば、戦後のイギリスにおける社会福祉政策のスローガンであり、その後、ウエルフェアステーツ、福祉国家という一つの国家観が世界じゅうに広がりました。 残念ながら、この理想は、やがて英国病と呼ばれる逼迫した財政事情の中で、一度は破綻したかに見えました。
本当の意味での国家観、国家戦略を持ち合わせない政治によるツケが回ってきているのが現在とここからの未来ではないかと。 このツケに対する将来的な支払、これ安価な外国人労働者による埋め合わせという形で行われるんじゃないでしょうかと。外国人労働者が必要になった理由の一つとして、これまでの政治において有効な少子化対策、人口減少対策がなされていなかったからだと。
日本の海洋国家としての在り方の総理の国家観をお聞かせ願いたいと思います。 古くから日本人は海に親しんできました。万葉集にも多くの海に関する和歌が歌われています。そして現代においては、インフラとレジャーの二つの側面で日本人の生活を支えてくれています。
その映画を見ておっても思うことは、やはり彼らリーダーズには日本をどうしていくんだという強い国家観、それによって礎が築かれてきた、そんな思いがするわけでございます。
政府は、憲法や教育基本法などに反しないような形で教材として用いることまでは否定されることでないとする答弁書を閣議決定いたしましたが、昭和二十三年の衆議院での教育勅語等排除に関する決議や、同年、参議院での教育勅語等の失効確認に関する決議を踏まえると、また、教育勅語が国民主権など現行憲法の精神と相入れない天皇中心の国家観を含むものであると考えると、不適切であると思いますが、いかがでしょうか。
名古屋の塾から小学校を起こした人も市内の高校を買収した人も在日ですから、この学校では勉強はできても国家観はずたずたになり反日の人間になり得るという構図です。 こういうことを公式な通信ですとかブログで公表して、幼稚園のホームページにも載せています。私はこういう考え方は許せませんし、賛同できませんが、総理はこういう考え方には賛同できますか。
もう一つは、やはり先ほど来問題になっていますように財源の問題がありますので、非常に大きな政府を目指すということで、そういう国家観の転換が国民の合意が得られれば、高等教育を無償化にするというのは、これは先ほども申し上げましたように、世界人権規約で日本もそれを目指すということにはなっているわけですから、そういう意味で目標としてはあり得ると思いますけれども、非常に遠い目標であるということで、私は、今の現実
また、憲法的正義を実現するため、裁判所に違憲立法審査権が付与されるなど、時代や国家観の変化に対応した変容も認められるところです。 自由民主党は、このような近代立憲主義に基づき、多様な価値観をよりどころとして、個人個人が人間らしく生きていくことができる社会を構築するために一貫して努力してきたものであり、今後もその努力を続けてまいります。
そこでの国家というものについて、ネーションというものと、そしてステーツというものの機能的なこと、これが、違うものが融合したネーションステーツというものがあるが、本来は、我々はここについては、ナショナリズムではなくてパトリオティズムという国家観というものを表現しなくてはいけないんだということを強く私は主張させていただきました。
なぜならば、どうも私がこの間総理の発言の傾向を見ていると、総理と恐らく同じような歴史観や憲法観あるいは国家観を持たれている方々とのやりとりにおいては、かなり踏み込んだ発言をされているんです。しかし一方、それとは違う考え、私もそうですけれども、違う考えを持つ人間との対話においては、少し留保された発言をされている。 よって、本心がどこにあるのかというのが多分国民には非常に見えづらいと思うんですよ。
下村さんは本当の盟友です、私と下村さんは国家観も同じで同じ方向を向いているとエールを送っています。また、森本氏もここで近畿博友会の会長として挨拶をしていて、下村先生は我々の夢であり、すごい人ですと持ち上げています。 下村氏が総理の大事なお友達であるということはわかりますけれども、私は、もうおかばいになるのはやめた方がいいんじゃないかと思います。
大変生意気なことを言わせていただきますが、戦後七十年、今こそ目指すべき日本の将来像、そして新たな国家観を示すべきときだと考えますが、総理を目指され、また期待されている林大臣の率直な御所見をお伺いしたいと思います。